「あ、は、はい。すいません」
和臣が慌てたように両手を迎えに出すと、
「えっと、そっちが和臣さんよね。じゃあこっちがわたしで」
希恵子も同様に、あたふたと受け入れの準備を始める。
「そのままお待ちください。こちらでいたしますので」
「あ、そうか……」
「あ、あはは」
ウエイトレスの冷静な一言に、和臣と希恵子は揃って恥ずかしそうな笑顔を浮かべた。
「そ、そういえばあの時も同じことをしたような……」
「そ、そう、だったかしら」
余計なところで昔の記憶をほじくり返す和臣にはそう言ってとぼけた希恵子だが、頭の中で考えたことはまるで同じ。
(ああ……)
希恵子は、確信した。
同じ時を過ごし、同じ記憶を一生にわたって共有することができる、幸せな二人。あの頃も今も、そしておそらくこれからも、自分達の関係は何も変わることがないのだ、と。
(食べ終わったら、話をしよう)
改めて、心の中でそう決意を固めたところで、
「では、どうぞごゆっくり」
手際よく準備を終えたウエイトレスが、もう一度綺麗なお辞儀をしてテーブルを離れる。
ひとしきり態勢が整って、ほどなく食事が始まった。
「よかった。味は落ちてないみたいだね」
「うん、相変わらず美味しい」
当たり障りのない感想を述べ合いながら、希恵子はどう話を持ち出すか、あれこれと思案を巡らせていく。
――だが。
「いやー、でも本当によかった。黛さんに相談して」
和臣の口に、突然その男の名がのぼった。
「!」
瞬間、希恵子は大きく目を見開いたまま、全身をびくんと硬直させてしまう。
(なっ……)
全てが、消えた。
今の今まで積み重ねてきた思考は一瞬にして吹き飛んで、あとは冬の雪原のように真っ白な空間が、ぽかんと心に広がるばかり。
「……なん……で?」
ようやく、声を絞り出した。
「え? あっ……い、いや、その……実は、さ……」
自らの失言に気づいた和臣が、申し訳なさそうにこれまでの経緯を説明する。
出張が決まって、希恵子が落ち込んでいるように見えたこと。
出かける前に何かしたいとは思ったが、いい案が浮かばず黛に相談を持ちかけたこと。
黛のアドバイスもあって、この店での食事を選んだということ。
「ご、ごめん。本当は全部自分で決められればそれが一番なんだけど、なかなか……。それに黛さん、こういう時凄く的確な意見を言ってくれるもんだから、つい頼っちゃって……」
「……そう」
いつになく言い訳がましい言葉を連ねる和臣に、希恵子は一言、ぽつりと返した。
「そ、そういえば」
希恵子の反応を静かな憤りと受け取ったのか、和臣が逃げるように話題を変える。
「料理が来る前、話が途中になっちゃったよね。希恵子さん、何か言いたそうにしてたみたいだけど……」
「え? あ、ああ、いいの。もう忘れちゃったから、大したことじゃないと思う」
何食わぬ顔でそう答えると、希恵子はまだ手付かずの皿にスプーンを伸ばした。
「あ、こっちのスープも美味しい。飲んでみてよ、和臣さん」
「え、あ、ああ……あ、ほんとだ。いい味だね」
「でしょ。今度作ってみようかな」
「うん。希恵子さんの腕ならいい線行けるかも。楽しみにしてるよ」
「ふふふ。じゃあ、期待しないで待っててね」
にこやかな笑顔に戻った希恵子が黛の件を話そうとすることは、それ以降一度もなかった。
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