昭和二十一年、八月。
長い戦争を経てすっかり変わり果てた大地に、ぎらぎら眩しい夏の陽差しが容赦のない追い討ちをかけていた。
「何て、こった……」
絞り出すような声で呟きながら、石ころだらけの道をのろのろと、まとわりつく陽炎を押しのけるように歩くのは復員兵、長浜正一(ながはましょういち)。
上背のある骨太な身体はどうしようもないほどに痩せこけ、全身を包む軍服は見る影もなく薄汚れている。
「っ……」
歩を進める正一の顔が、苦痛に歪んだ。
服の下に隠れているのは、手当ても満足になされなかった数ヶ所の怪我。
ここ数年、状態としてはまさに不潔不衛生の極みであったため、おそらく病気の一つ二つは当たり前に巣食っていることだろう。
悲惨。
今の正一の状態を表すのに、どうやらそれ以上の言葉は見つかりそうになかった。
「圭子(けいこ)……隆男(たかお)……」
正一は無精ひげを揺らすと、かさかさに荒れた唇から呻きのような声を漏らした。
愛する妻と息子に、生きて再び会いたい。いや、会ってみせる。
それは正一にとってどんな戦闘よりも、どんな命令よりも大事なことであった。己に課した使命を実現する。ただそのためだけに、正一はあらゆる苦難を乗り越えて、ようやくここまで帰ってきたのだ。
「多分、この辺だと思うんだが……」
正一は落ち窪んだ目を気怠そうに動かし、周囲を見回した。
自宅が近いのは大体分かったが、何しろ辺りの景色が一変していて目印になりそうなものがまるで見当たらない。
「あ、あれぇ?」
「え?」
背後で不意にあがった素っ頓狂な声に、正一は反射的に振り返った。
「もしかして、正一さんじゃないかね? 長浜さんちの」
丸い目を大きく見開いて正一に語りかけてきたのは、防災服にもんぺ姿の小柄な女性。
「あ……み、三輪さんですか?」
相手を思い出して、正一の声も少し大きくなった。
三輪敏江(みわとしえ)。以前ご近所だったおばさんだ。家族ぐるみとまでは言わないが、たまに家に来た時はよく妻の圭子と賑やかなお喋りを楽しんでいた記憶がある。
「あらー、ほんとに正一さんだわー。いやー、驚いたわー。あらー、あらー」
敏江は正一に近寄ると、本人であることを確かめるように何度もぺたぺたと頬をなでた。
「本当に本物なんだね? 幽霊なんかじゃないんだね? あんたが戦死したっていう知らせが来ていたからさ。何だか信じられなくって……」
「せ、戦死!? 僕がですか!?」
「ああ、そうさ。戦争が終わる一ヶ月くらい前かな。どこだかの海で乗っていた船が沈んだといってね。軍人さんが戦死公報を持ってきていたよ」
「そ、そんな……」
事実無根の話を淡々と説明する敏江に、正一は瞬きもできないまま言葉を失った。
だがそれは、有り得ない間違いではなかった。
敗色濃厚になって現地の破綻が進むうちに、国内へ伝わる情報も錯綜していったのだろう。
さらに本土のこの壊滅ぶりを考え合わせれば、たかが一兵卒の生死くらい取り違えられても何ら不思議はない。
「そっか、そっか。間違いだったんだね。いや、とにかく、生きててよかったよ。命あっての物種っていうもんね。本当、仏さんにならずに帰ってこれてよかったねえ」
敏江は気のいい笑みを満面にたたえて、正一の生還を喜ぶように何度も頷いた。
「はい。三輪さんも無事で何よりです。この辺もかなり空襲を受けたようですが……」
「あー、まあね。でも戦地に行った兵隊さんに比べりゃこんなの、どってことないさ。ね?」
自分も決して楽ではないだろうに、それでもたくましく笑顔の花を咲かせる敏江に、正一も元気づけられてにっこりと微笑みを返した。
「それで、その……圭子と隆男……妻と息子がどうなったか、知りませんか?」
だが、正一が妻と子供の話を持ちかけた途端、それまで快活だった敏江の顔が急に曇る。
「え? あ、ああ、圭子ちゃんにタカ坊……ね。うん、無事さ。二人とも……無事だよ」
「そ、そうですか。無事ですか。よかった」
気まずそうに目を逸らして答える敏江をよそに、正一はほっと胸をなで下ろした。
さっきの敏江の言葉ではないが、命あっての物種。とにかく生きていてさえくれれば、先のことはどうとでもなる。
「あ、あのね、正一さん」
言い淀んでいた敏江が、覚悟を決めたように正一の目を真っ向から見据えた。
「こんなことを言うのは酷かもしれないけど、あんた、あの二人には会わない方がいいよ」
「……え?」
思いもよらない敏江の言葉に、正一の視線が不安そうに左右へ散る。
「せっかく無事に帰ってきたっていうのに、あんな――」
「あんな? あんなって何です?」
正一は敏江に詰め寄って両肩をつかむと、揺さぶるように問いかけた。
「ねえ、三輪さん! 何だっていうんですか? 空襲で大怪我でもしたんですか? それとも病気か何か――い、いや、そんなのは何だって構わないんだ。とにかく二人の居場所を知っているんなら教えてください! どうかお願いします!」
「う、うん……だけど……」
「お願いです、三輪さん! どうかお願いです! この通り!」
「や、やめておくれ。頭を上げておくれよ、正一さん。あたしゃ別にそんなつもりじゃ……」
「だったら!」
結局、正一はほとんど押し問答のようにして敏江から妻子の居場所を聞き出した。
そして激昂した非礼を丁重に詫びると、感謝の言葉を残してその場をあとにした。
「……」
重い身体を引きずりながら、それでも勇んで歩く正一の背を、敏江は無表情に見送った。
「せめて、ちゃんとした形で会えるといいんだけど……」
心配そうな声で呟くと、未練を断ち切るように踵を返して家路へとつく。
「戦争っていうのは……本当にむごいもんだね」
口惜しそうに歪んだ敏江の唇から、哀しげな一言がぽつりと漏れた。
* * *
真夏の、夕暮れ時。
正一は身体の痛みをごまかしながら、自宅からかなり離れた郊外までやってきていた。この辺りは空襲の手があまり回らなかったようで、無傷で残っている家も数多く見られる。
「ふう、ふう……」
正一は息を切らしながらもなお足を止めず、きょろきょろと辺りを見回していた。
敏江に教えてもらった目的の家が、そろそろ見えてくるはずであった。
「あ、あれだ!」
少し離れた位置に建つ瀟洒な洋風風の家を見つけ、正一は思わず足を早めた。
行けばすぐに分かると聞いてはいたが、なるほど、周辺ののどかな景色からはかなり浮いた感じの建物で、戦争で焼け出された母子が住むには少々違和感のある佇まいだった。
しかし、正一にはそんな些細な事などどうでもよかった。
「こ、ここに……」
圭子と隆男がいる。
長い間会いたくて会いたくてどうしようもなかった、最愛の家族がいるのだ。
正一は感極まって早くも泣き出しそうになったが、涙は二人と対面するその瞬間までとっておこうと、こみ上げる嗚咽を懸命に飲み下した。
「ん?」
家の玄関が、不意に開いた。
「あ……」
おずおずと外に出てきた一人の女性に、正一の目は釘付けになる。
「け……圭、子……」
かすれた声が、途切れがちにこぼれ出した。
それは、夢にまで見た妻の、無事な姿。
圭子は戦時を引きずったモンペ姿ではなく、新時代を予感させるお洒落なワンピースに身を包んでいた。そのせいか、記憶にある姿よりも丸みを帯びてふっくらしたように見える。
「けい……」
圭子に声をかけようと、正一は足を一歩前に踏み出した。
自分に気づいたら、圭子はどんな顔をするだろう。驚くだろうか、それとも笑うだろうか。元々怖がりな性格だから、幽霊と思って腰を抜かしてしまうかもしれない。
――だが、次の瞬間。
「!」
正一は上げかけた手を下ろすこともできないまま、目を見開き固まってしまった。
妻に続いて後ろから出てきたのは、見知らぬ壮年の男。
ずんぐりと小柄な男だ。肥満体とまでは言わないが、この物資不足の状況を鑑みれば随分と栄養の行き届いた体格をしている。身なりは一般的な白シャツとズボンだが、いかにも狡猾で下品な雰囲気の持ち主であることは、遠目からでもよく窺い知ることができた。
「くっ……!」
正一は咄嗟に身を翻すと、近くの草むらで息を潜めた。
(な、何だ? 何なんだ、あいつは……?)
頭の整理もおぼつかないまま、微動だにせず二人の様子を見つめる。
圭子は腰を抱かれるような体勢で男に密着すると、特に嫌がる素振りもなく家屋に隣接した小さな納屋へと入っていった。
「っ……」
正一は周囲に誰もいないのを確認すると、銃弾を避けるような体勢で身を屈めながら納屋の窓辺にそっとへばりついた。
「……」
気配を殺し、さびれた建物の内部にそっと目を向けてみる。
「!!」
直後、正一は後ろから頭をがんと殴られたような衝撃を受けた。
「んっ……んんっ、んんーーーっ!」
鮮やかな橙色の陽光がスポットライトのように差し込むその先に見えたのは、立ったままで男の剛直に貫かれる、妻の姿。
「そら、そら、そら、そら」
「んっ、んんっ、うぅん、んっ!」
圭子は服に右腕を突っ込まれたままスカートをまくり上げられ、左足を膝から抱えるように持ち上げられていた。さらけ出された柔らかな脚部と、反るようにしなった足の甲でひらひら舞う白の下着が、不思議なほど眩しく輝いて見える。
「なっ……んなっ……!」
正一にとって、それはあまりに信じがたい光景であった。
目の前がみるみるうちに真っ暗になって、足元もおぼつかない。ちょっとでも気を抜けば、そのまま倒れ込んで意識を失いそうな気がした。
「圭、子……」
近くのカフェで給仕をしていた圭子を見初めた、あの日。
周囲の反対を押し切って結婚を決めた、あの時。
息子にも恵まれ幸せな家庭を築いた、あの頃。
懐かしくも美しい数々の思い出が、正一の脳裏をぐるぐると、走馬灯のように巡る。
「なん、で……?」
引き絞るような声が、胃の奥から漏れた。
何とかなると、思っていた。
徴兵されても、死んだことにされていても、とにかく戦争は終わり、自分はこうして無事に帰ってきたのだ。
命さえあれば、苦しくてもまたやり直すことができる。
正一は今の今まで、何の疑いもなくそう信じていた。
――なのに。
「そ、そんな乱暴に、しないで……も、もう少し、優しく……うっ、うぅん!」
目の前で淫らな嬌声をあげるのは、もう一度共に歩んでくれる伴侶だったはずの、女。
「あ? ガキに見られたくないっていうからわざわざこんなとこで抱いてやってんだろうが。がたがた文句ぬかすな」
男は乱暴な言葉を吐くと、さらに昂ったような動きで激しく腰を突き上げ、ざらついた舌を圭子の細くしなやかな首へと伸ばした。
「何ならこのまま外に出て、帰ってくるガキに見せつけてやろうか? ん?」
男の一言に、圭子の顔色がさっと青ざめる。
「そ、そんな。お、お願いですからどうか、あの子には……隆男には……」
自らを貪る太い腕にすがりつくと、健気な母の表情で必死に哀願の言葉を吐いた。
「へ、分かってるよ。ガキの前ではちゃんと父親面しておいてやるさ。とりあえずはな」
ぞんざいに言い放つと、男は右手を胸から離して圭子の陰部をまさぐり始めた。
「ん、んんっ!」
正一のいる場所からはっきり見ることはできないが、おそらく陰核を弄んでいるのだろう。圭子の顎が何度も切なげに跳ねる。
「それにしても、お前のここは本当にいい具合いだな。まとわりつくように吸い付いてきて、何回やっても全然飽きがこねーや」
ぐちゅぐちゅとかき回すように膣内の感触を味わいながら、男はさらに抽送を早め、同時に幾度となく圭子のうなじを舐め回した。
「ん、あ、あぁっ……」
がっちり固定された身体を、それでも悩ましくよじらせながら、圭子は顔を火照らせ甲高い雌の鳴き声をあげる。
「ほら、そろそろだぞっ!」
男が叫ぶと、
「ん、あ、んんっ、あ、ああぁっ!」
圭子もそれに合わせるように喘ぎ声を高めた。
「ふんっ!」
ほどなく男の身体がびくん、びくんと二度ほど大きく震え、
「あ、あぁ、あああぁぁぁーーーっ!」
圭子は屋根の一点を見上げたまま、蕩けた顔で全身を固く強張らせた。
「な、中……あいつ、中に……」
妻が犯される現場の一部始終を目撃した正一がやっとのことで呟いたのは、そんな一言。
妻の中に、見知らぬ男の精が大量に吐き出された。
その受け入れがたい事実に、正一は顔面を真っ白にしたまま、思考能力を根こそぎ奪われたようにぼんやりと立ち尽くしてしまう。
「ふぅ……」
男は満足そうに一物を抜くと、藁の敷かれた床に圭子の身体をどさりと放り捨てた。
「う……う、ぅ……」
スカートがめくれた状態でうつ伏せになった圭子が陸に打ち上げられた魚のようにぴくぴく全身を震わせると、がに股気味に開いた脚の付け根から膣の奥に入り損ねた精の滴がどろりと垂れ落ちてくる。
「ひっひ」
男は下卑た笑い声をあげると、圭子の痴態を見下ろしながら舌なめずりをした。
「たまんねえな、その格好。こりゃあ、まだまだおさまりそうにねえや」
ゆらりと近づくと、圭子の腰を逆さに抱え上げ、満月のように丸く張った尻をぴしゃぴしゃ楽しげに叩いてみせる。
「ほら、手をつけ」
ひとしきり尻肉の叩き心地を楽しむと、男は両手で圭子の腰をつかみ直した。
「そらっ!」
挿入しやすい位置まで持ち上げた陰部に、再び猛った一物をずぶりと押し込む。
「へへ、気をやったばかりで敏感になってるだろ。今度はたっぷり突いて、もっと気持ちよくしてやるからな」
一方的に宣言すると、男はわざと卑猥な湿音を立てるように腰を動かし、ゆっくりと焦らすような出し入れを始めた。
「ん、んんっ、んっ……」
男の肉根に身体の中心を貫き通された圭子のくぐもった喘ぎが、納屋全体に響いた。
「へっ、それにしても戦争さまさまだな」
問わず語りに、男の口が開く。
「若い男がみんな死んで、俺みたいに徴兵逃れをした奴は残った女をよりどりみどりだ。ま、人間しぶとく生き抜いてりゃこんな風にいいこともあるってもんよ」
口元がひひ、と醜く歪んだ。
「たまにはアメ公に全部持ってかれることもあるが、敗戦国じゃそれも仕方ねえ。それでも、代わりに服だの食糧だのを横流しさせてるんだから立ち回りとしては悪くねえやな」
得意顔で喋るうちに、男の抽送はだんだんと早まり、勢いを増してくる。
「この洋服も、これから食うメシも、全部、全部この俺が手に入れてきたものなんだからな。ええっ、感謝っ、しろよっ、おい!」
「んっ! あっ! あぁんっ!」
男が言葉に合わせて激しく突くと、堪えるように閉じていた圭子の唇が大きく開いた。
結合部の動きがすっかり滑らかになっているのは、既に一度たっぷりと白濁を注ぎ込まれているからだけでは、おそらく、ない。
「け、圭子……圭子……」
正一は知らない男に抱かれ、喘ぎ声を押し殺すこともできなくなった妻の姿を、ただ呆然と見つめた。
圭子は今、隆男に、息子にこんな姿は見せたくないと思っていることだろう。もしかしたら自分に対しても、いくばくかの罪悪感を抱いてくれているかもしれない。
だがそれでも、女ざかりの熟れた身体は性の欲求に対し、あまりにも正直すぎた。
猛々しい男の一物に貫かれ、女の秘部を念入りにこね回されているうちに、普段は心の底に隠されている淫靡の性が、どうしようもなく解き放たれてしまっていた。
「んっ、んんっ、あっ、ああぁっ!」
ひと鳴きするたびに羞恥心や罪悪感を放り出しているかのように、圭子の嬌声はだんだんと大きくなる。
「ほら、いいだろ? 俺のこいつは」
男は圭子の背中に覆いかぶさると、乳房をまさぐりながら耳元へ顔を寄せた。
「んっ、んっ……あぁっ……」
「何とか言えよ、ほら」
圭子の心根を見透かすようにせっつくと、深く長めのひと突きをする。
「は、はい……いい、です……」
圭子は床とにらめっこするような体勢から、苦しそうな声で答えた。
「死んじまった前の旦那よりも?」
「は、はい」
「聞こえねえ。もっと大きな声ではっきり言ってみろ。どうなんだ?」
「い、いいです! ま、前の夫より……正一さんより……いいですぅっ!」
「!」
それは正一にとって、あまりにも残酷な一言。
自分の知っている妻は、もうどこにもいない。その動かしがたい事実を正一は今、これ以上ない形ではっきりと思い知らされてしまった。
「ひっひ。そうだろうそうだろう、っと……そろそろ出すぞ!」
男は嫌らしい顔と声で笑うと、勢いづいたように圭子の白尻をめった突きにして、そのまま一気に射精へと持ち込んでみせる。
「そら……よっと!」
またしても、男の精が女体の奥にたっぷりぶちまけられると、
「ん、んんんーーーっ!」
圭子の身体も、それに呼応するように最高点での絶頂を迎えた。
「ふう、出た出た。まあ毎日たっぷり抱いてるし、身体つきを見ても多分もうできてるから、いくら出してもおんなじこったろうけどな」
「……!」
勝ち誇ったように言い放つ男とは対照的に、正一はこけた頬をひくひくとひきつらせる。
「と、さすがに時間がねーか。ま、続きは夜だな。今度は裸にひんむいてたっぷり可愛がってやるから、覚悟しておけ」
男はなおも硬さを失わない一物を苦しそうにズボンへしまうと、
「おう、ちゃんと片づけとけよ」
吐き捨てるようにそれだけ言い残し、あとは圭子を振り返ることもないままさっさと納屋を出ていってしまった。
「っ……ぅ……」
正一の口から、唸りとも呻きともつかない獣のような声が微かにこぼれる。
頭の奥をゆわんゆわんとかき回され、世界の全てがぐんにゃりと歪んで見えるような気分に襲われながら、正一は地面にぺたんとへたり込んだ。
(そ、そんな……そんな……)
正一は戦場で、多くの死を見てきた。
あまりのむごたらしさに、思わず目を背けてしまうことも数知れずあった。
残酷なものからは、つい視線を外してしまう。
おおよそ人として正気を失っていたはずの戦場でさえ、正一のそんな感覚が麻痺することは最後までなかった。
だが、今――。
正一は、目を逸らすことができなかった。
妻が、他の男に陵辱されている。
このあまりに酷く、あまりに惨めな光景が眼前に広がっていても、正一は視神経のどこかが壊れてしまったかのように、交接する二人の姿を瞼の奥に捉え続けていた。
(お、俺は……俺、は……)
「父ちゃーん!」
「!」
聞き覚えのある声が、ぐらつく正一の意識を一気に現実へと引き戻した。
「ねー、父ちゃん。母ちゃんは?」
「あ? まだどっかで仕事してんじゃねえか? まあ、待ってりゃそのうち戻るだろ。ほら、さっさと家に入れ」
「うん、分かった!」
男と会話を交わしているのは、間違いなく隆男だった。
姿こそ見えなかったが、声の調子から察するに元気でやっているのだろう。幼さが消えて、以前よりも少し大人っぽい喋り方になった気がする。
(た、隆男も……)
息子はあの男のことを「父ちゃん」と呼んだ。
そして今ここで聞いていた限り、二人のやり取りはすっかり親子のそれであった。
「い、行かなきゃ」
隆男の声を聞きつけた圭子が、すぐさま立ち上がって服についた藁をはたき落とした。
(あ……)
そして、正一が躊躇して身をすくめているうちにさっさと身づくろいを済ませると、優しい母親の佇まいに戻って平然と納屋の外へと出ていってしまう。
「……」
いまだ昼の熱気を残すむわんと湿った風が、正一のこけた頬を生温く這い回った。
「圭子……隆男……」
正一は鞄の中に手を伸ばすと、小さなパイナップルを思わせる鉄の塊を取り出した。
それは、戦地から持ち帰った手榴弾。
天皇陛下から賜りしもの、命よりも大事にせよ、などと言われてきたが、もう今となってはこんなもの、芋一個にも劣るただのガラクタでしかない。
「……いや……」
正一が、ぽつりと呟く。
まだ、使い道がないことはなかった。
「だが……」
それは、禁断とも言うべき手段。どうしようもなくなった時にのみ用いることが許される、最後の最後の、一手だった。
「……」
正一は納屋の中と、隣接する家屋とを交互に見比べた。
「ぅ……」
先刻の淫猥な光景がまざまざと脳裏に蘇って、胃液を全部吐き出しそうになる。
「っ……」
もう一度手元の手榴弾に目線を戻すと、無言のまま、睨みつけるようにじっと見つめた。
「くっ……」
体育座りで、膝の上に顔を伏せる。
肉体の疲労か、精神的な衝撃か、あるいはその両方か。とにかく、全身のあちこちが焼けるようにひりひりと痛んだ。
「うあああああああああーーーーっ!」
正一は不意に、野獣のような咆哮をあげた。
それから、奥歯をぐっと噛みしめたかと思うと、決然とした態度で伏せていた顔を上げる。
「うっ……うぅ……ううぅっ……!」
とめどない涙でにじむ正一の目に、橙色の夕陽がじんわりと染み込んできた。
※おまけストーリー『ある復員兵の夏 ――Start――』はこちらから!
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