「さて、食後の休憩も終えたところで……」
ビールの空き缶をテーブルに置いて、黛がすたすたと歩き出す。
「次は、ここでヤることにしましょうか」
向かった先は、寝室。
「え……」
希恵子がぐっと、言葉に詰まった。
ここは和臣と布団を並べ、時に触れ合い、時に会話を重ねながら、夫婦二人の濃密な時間を織り成してきた、いわば聖域。
「布団は一組でいいですよ、夜通し抱き合って、疲れたら一緒に寝ましょう」
その和臣との大事な場所に、この下種男が踏み込もうとしている。
「……」
だがそれでも、希恵子は沈黙を守るしかない。反撃も抵抗も逃亡も、どれ一つとして自分に許されていることはなかった。
「では始める前に、一つルールを決めましょうか」
「……ルール?」
訝しげに聞き返す希恵子に、黛はええ、と頷いて続ける。
「この部屋の中では、お互いを名前で呼び合うこと」
「!」
希恵子の心臓が、握り潰されたようにぎゅっと締まった。
「私は希恵子と呼ばせてもらいますが、奥さんは?」
顔をしかめる希恵子に構うことなく、黛がさらに言葉を足して尋ねる。
「……匡一さん、と」
僅かな時間の逡巡を経て、希恵子はぽつりと一言、そう応じた。
「そうですか。では、この敷居を一歩またいだ瞬間から、ということで」
「……はい」
さっさと室内に入ってしまった黛の後ろから、希恵子がそっと足を踏み入れる。
――いや。
「っ……」
片足を上げたまま、その場でしばらく躊躇した。
(今さら、よね……)
何を迷うことがあるというのか。
自分はもう、この家のあらゆる場所で黛に身体を許してしまったのだ。リビングであろうがキッチンであろうが寝室であろうが、なされる行為に違いはない。
もう、いくら抱かれても同じことではないか。
そんな投げやりな感情が、希恵子の胸を支配するようにどんよりと広がる。
(い、いいえ……)
やはり、ここは特別。
希恵子はすぐにそう思い直す。
何人たりとも立ち入らせてはいけない。夫婦の寝室とはそういう、どこか別格な場所であるような気がした。
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