* * *
「少し遅れたかな」
腕時計を見ながら、和臣は急ぎ足で駅の改札を出た。
表街道を少し歩いてから、折れ曲がった細道にひょいと足を踏み入れる。
しばらく進んだ先にぼんやり浮かんできたのは、黄色地に黒文字で『BAR・SWAP』と書かれた小さな看板。
「こんばんはー」
和臣が軽い挨拶とともに扉を開くと、
「おう、和臣くん。こっちだ、こっち」
カウンターに座って先に一杯やっていた黛が、にこにこ上機嫌に手を振った。
「ごぶさたですね、古沢さん」
「あ、マスター。どうも、お久しぶりです。何だかご心配おかけしたみたいで」
「いえいえ。またお越しいただけて嬉しいですよ」
黛と同年代らしいひげ面のマスターと和臣が言葉を交わす。
「さあさあ、話は後にして、まずは一杯飲もうじゃないか」
割って入った黛が、和臣の肩をぽんと叩いた。
「和臣くんも仕事中はやはりコーヒー派かね」
「そうですね。緑茶も目は冴えるんですけど、何となくトイレが近くなる気がして」
「ああ、なるほど。ドリンク系も悪くはないが、あれはどうも味がな」
「あ、分かります。飽きてきますよね、だんだん」
和臣が合流してしばらくは、そんな当たり障りのない会話が続く、
「コーヒーといえばこの前、とあるご婦人に自分で仕上げたやつをご馳走してみたんだがね。幸いにして好評を得ることができたよ」
さりげなく話題の方向をずらすと、黛がぐっと前に身を乗り出した。
「へえ。確かに黛さんのコーヒー、美味しいですもんね」
以前マスターの目を盗んで振る舞われたコーヒーの味を思い出し、和臣が相槌を打つ。
「でも、黛さん。そのご婦人というのは、ひょっとして、その、恋人とか……」
「いやいや、そういう関係ではないよ。確かに最近のお気に入りではあるが……まあ、あえて説明するなら共犯、というのが一番近いんじゃないかな」
聞きにくそうに尋ねた和臣に、黛がふふんと鼻を鳴らして語った。
「へえ、それは何だか穏やかじゃないですね」
「なーに、共犯なんていってもそれは物の例え。お互い納得ずくの話だし、誰に迷惑をかけるわけでもないさ」
「いや、黛さんがそういう顔でそういうことを言う時は怪しいんですよ。もう十中八九これに決まってます、これに」
カウンターから会話に割り込んできたマスターが、小指を立てる少々古臭い仕草を見せた。
「もうね、この人のせいでどれだけ多くの女が泣かされてきたことか。今だって人の知らないところで何をしているか分かったもんじゃないですよ、本当に」
冗談めかした口調ながらも、そう言ってさらに舌鋒鋭く黛を糾弾する。
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