* * *
ここは、とある小さなオフィスビルのワンフロア。
「あれ?」
古沢和臣は、不意に訪れた暗闇の中で驚いたように声をあげた。
いつも通り一人で自主的なサービス残業を続けていたわけだが、その途中でフロアの電気を全部消されてしまったのだ。
「……やれやれ、またか」
和臣は肩をすくめ、ため息をついた。
「よ、また残業かい。仕事熱心だね、古沢は」
「ほんと、真似できねーわ。でもどうせやるなら残業代はもらっとけよ。サビ残ばっかりだと俺達までやりにくくなるだろ」
元々和臣の残業は同僚から嫌味混じりに冷やかされたり、苦言を呈されることが多い。
その上さらにこんな目に遭うと、ただでさえ微妙なポジションしか築けていない会社にますます居場所がなくなったような気分に追い込まれた。
「……でもまあ、仕方ないな」
和臣は小さな声で呟くと、手元のデスクライトとパソコンモニターの光だけを頼りに作業を続ける。目がちかちかしてくるが、もう一度灯りをつけに行くのは何かと煩わしかった。
「少し我慢すれば、済むことだ」
思ったことを、そのまま独り言にする。
何しろ今は妻に内緒でとんでもない額の借金を抱えてしまった身分。この程度のことで音を上げるわけにはいかない。
黛に立て替えてもらったお陰で事態はだいぶ好転したが、それでも五百万という金が途方もなく重いことに変わりはなかった。
「とにかく……」
今は地道に返済を続けるしかない。
もちろん一朝一夕にはいかないが、それでも一生懸命働くしか道はないのだ。
要領が悪いのか、なかなか通常の仕事を定時に終えられないため、今日もプラスアルファの残業はできそうにないが、それでも溜め込んで明日に持ち越すよりはよほどいいだろう。
「よし」
自分に奮い立たせるように首肯すると、和臣はキーボードに乗る左手にちらと目をやった。
「……」
見えたのは、蛍光白の光を受けて鈍い輝きを放つ、銀色の結婚指輪。
あまりに地味な、何の変哲もない安物であるためちょっと恥ずかしいのだが、当時の和臣にとってはこれが精一杯の誠意だった。
「希恵子さん……」
和臣が、妻の名前をぽつりと口にする。
不意に、時間が逆流を始めた。
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