「さて。では話も決まったことですし、さっそく出かけるとしましょうか」
「え? あ、あの」
そそくさと立ち上がった黛を引き止めるように、希恵子が声をあげた。
「その、出かけるなら、着替えと化粧を……」
困惑の色を浮かべながらも、そう訴えかける。
こんな時に何を言っているのかと自分で思わなくもないが、何しろ今は全くの普段着に家で過ごす用の薄化粧。とてもじゃないが、外になど出られる身なりではない。
「ああ、そのままで結構ですよ。車は玄関前に置いてありますし帰りもお送りします。人目につくことは全くありませんので、どうぞご安心ください」
要望をあっさり却下すると、黛はゆっくり希恵子の背後に回って、華奢な肩にぽん、と一つ両手を置いた。
「それに……」
伸びやかなバリトンが、頭上に響く。
「その格好の方が、興奮しますので」
「……」
口調はあくまで柔らかなまま、しかし有無を言わさぬ力で上から肩を抑えつけてくる黛に、希恵子は己に残された選択肢がもはや一つしかないことを悟った。
* * *
ここは、とあるホテル。
といっても、別に「高級」や「豪華」などといった冠がつくわけではない。希恵子の家から一番近い、静かな佇まいのラブホテルである。
「こちらです」
比較的値が張るとおぼしき一室のドアをカードキーで開けると、黛は恭しい態度で希恵子を室内へ招き入れた。
(やっぱり……)
この男は初めからそのつもりだったのだ。
おずおずと部屋に足を踏み入れながら、希恵子は改めてそう確信する。
チェックインをしなかったのにポケットからルームキーを出したのが何よりの証拠。事前に部屋を確保したうえで自宅に押しかけてこなければ、こんな真似はできないはずだ。
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