出会いは、ほんの偶然だった。
新規開拓ということで和臣が『BAR SWAP』の扉をくぐった時、黛は既に常連としてカウンターに座り、風景の一部といった感じで店に溶け込んでいた。
「やあ、お一人ですか」
「え、ええ」
最初は隣の客として普通に話を始めたが、徐々に打ち解け仲よくなった。
職場での人付き合いは希薄だが、かといって一人酒が好みというわけでもない和臣のような人間にとって、酒場でしか会うことのない黛は、ほどよい距離感を保つことのできる、非常に話しやすい相手だった。
和臣は元々酒に強いわけではない。
下戸とまではいわないが、たまにショットバーへ行き、安いカクテルを一杯ちびちび嗜めばそれで十分という程度。
「す、すいません。僕、あまり高い酒とか飲めなくて……」
「なーに、値段なんか問題じゃないさ。要は美味しく飲めて、気持ちよく酔えるかどうかだ。いい酒の条件なんて、突き詰めればそれだけのことだよ」
高い酒を豪勢に飲み干しながら、それでいて安酒しか飲まない自分が引け目を感じないよう上手に気配りをしてくれる黛に、和臣はすぐ憧れと尊敬の念を抱いた。
「これ、うちの妻なんです」
話を少しでも盛り上げようと、希恵子の写真を酒の肴に持ち出したのは和臣自身。
「大学のゼミで知り合いました。妻は年下なんで、まずは僕が先に就職して、向こうの卒業を待ってから結婚しました」
「ほう、そうかい。いやはや、何というか、これは……綺麗な、奥さんだね」
「えへへ、そう思いますか? 僕が言うのもおかしいですけど、本当に美人で、しかもできた妻なんです」
いかにも驚いたように賛辞を送る黛に、和臣は照れ臭そうにのろけを返した。
「でも、最近はなかなか思うようにいかなくて……」
「思うようにいかない?」
思わずこぼしてしまった一言に食いついた黛に、和臣はしんみりと夫婦の悩みを話した。
妻への愛情は昔も今も決して変わらない。だが、肝心の男性自身がまるで言うことを聞いてくれないのだ、と。
「まだ三十すぎなんですけどね、僕……」
自嘲するようにぼやくと、和臣は仕事とそれに伴うストレスが原因だろうと語った。
その一方で、妻の希恵子はずっと専業主婦。
「彼女はわたしも働くって言ってくれたんですけど、僕はどうしてもそれを受け入れることができなくて……古い考えだとは思うんですが……」
「いや、よく分かるよ」
「僕達には子供もいません。彼女は家事全般を手抜きせずこなしてくれていますが、それでも身体を持て余していると思います。でも、外に出てもらうのはやっぱり嫌で……」
「なるほど、なかなかに複雑な心境だな」
「……」
ウイスキーのロックを口に含みながら頷く黛に、和臣はうつむいたまま沈黙した。
それからも、黛とは酒場だけの付き合いが続いた。
希恵子とのことはもちろん、仕事のこと、趣味のこと、世の中全般のこと。
知識や経験が豊富で、会話の振り幅が恐ろしく広い黛に、和臣は事あるごとに何でも相談を持ちかけるようになった。
負債を抱える結果になったが、投資だって元を正せば黛から聞いた話を基に始めたものだ。
「すいません、いつもつまらない話ばかりで。でも黛さんって聞き上手っていうのか、何だか包容力がある感じだから、僕もつい色々喋っちゃって……」
「いやいや、それはありがたいことだ。相談相手くらいにならいつでもなるから、何かあればまたどうぞ」
「ありがとうございます。本当に、よろしくお願いします」
和臣にとって黛とは、心の底から信頼を寄せる、まさに絶対的な存在であった。
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