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プチNTR4~義母と、違和感と、同級生と~

 変だな、と思った。
「やだ、貴洋ってば。母さんのことじろじろ見て……どうしたの?」
 それは、大学二年の夏休み。
 成瀬貴洋(なるせたかひろ)が、東京から故郷の実家へお盆の里帰りをした日の、夕食でのこと。
「ねえ、貴洋ってば」
「え? あ、い、いや、別に。何でもない」
「そう? じゃあどんどん食べてね。お代わりもあるから」
「あ、ああ」
 いつの間にか手になじまなくなった自分専用の茶碗と箸で、懐かしい炊き加減の白いご飯をぱくつきながら、貴洋はなおもちらちらと一年ぶりに会う義母、亜矢を見やった。
 美しく整った眉に、やや釣り気味で黒目がちな瞳。綺麗にバランスの取れた鼻や、ぷるんと形のいい唇。
 以前は長く結んでいた髪をいつの間にか肩で切り揃えていたことを除けば、全てが昔と何ら変わらないように見える。
「……」
 だがやはり、何かがおかしかった。
 髪型とかそういう外見上の問題ではなく、久しぶりに見た義母は、明らかに以前と雰囲気が変わったように思えた。
「それでね、お父さんのお墓参り、明後日にしようと思うんだけど……」
 亜矢が、東京に行っても別段垢抜けることのない貴洋の凡庸な顔を、覗き込むようにじっと見つめる。
「ああ、いいよ。そういうのはちゃんと行っとかないと。ちょうど三年だしね」
 貴洋は、できるだけ声の調子を変えないように応じた。
「うん。それに……結婚して、十年」
「そっか……もうそんなになるんだ」
 さりげなく付け足された亜矢の言葉に、貴洋は過去を思い返すように奥の仏間を見つめた。

「貴洋、この人は石井亜矢さん。今度お前のお母さんになる人だ」
 連れ合いを亡くした父がほどなく再婚、二十七歳の亜矢がこの家にやって来たのは、貴洋が九歳の時であった。
「よろしくね、貴洋くん」
「う、うん……」
 笑顔が眩しい人。それが、新しくできた母親の第一印象だった。
 ある程度大きくなり、少しずつ異性を意識し始める微妙な年頃に差しかかっていたせいか、貴洋は亜矢にうまく接することができなかった。高校に入るくらいまでは自分の気持ちを整理できず、正直持て余した。 
 しかし、それはもう過去の話。
 今の貴洋は亜矢を実の母親同然に思っているし、おそらくは亜矢も貴洋を実の息子と同様に考えてくれているだろう。特に三年前に父を亡くして以降は、お互い暗黙のうちにその思いを強めてきた気がする。
 だが、それでも。
 貴洋は時々、胸の奥にトゲが刺さって抜けないような感覚に襲われることがあった。
 亜矢を一人残し、東京の大学に通うようになっておよそ一年半。
 距離を置き、時間が経てば自然に消滅すると思っていたそのもどかしい痛みは、むしろ日に日に増しているようでさえあった。
「貴洋くん、私のこと見てないよね」
「……え?」
「どう言えばいいんだろう……視界には入ってるんだけど焦点が合ってないっていうか、私を通して誰か別の人を見てるっていうか……」
「……」
 いい感じに仲よくなって付き合い始めたサークル仲間の女子にそう指摘されてふられた時、貴洋は何の反論もできなかった。
 自覚はなかったが、言われてみれば確かに思い当たる節はあった。
 彼女の向こうに見ていたのは、いつだって亜矢の面影だった。
「どうしろって、いうんだよ……」
 それまでぼんやりしていた痛みの輪郭がはっきりしてくるにつれ、貴洋は部屋で一人ほぞを噛むようにそんな言葉を口にするしかなかった。
 この夏休みは帰省せずに、ずっと東京で過ごすことも考えた。
 だが父の墓参りをおろそかにするのは嫌だったし、急にそんなことを言い出すのも明らかに不自然な気がした。
 そんなわけで、何時間も電車に揺られて帰ってきたはいいのだが――。

「それでね、貴洋」
 亜矢の声が、貴洋の視線を仏間から引き戻した。
「実は、その……」
 いつもは快活な亜矢が珍しく言い淀んだ。ここにも散らばっている、違和感の種。
「……何?」
 波打つような胸騒ぎを抑えつけながら、貴洋は亜矢を急かさないよう注意して問いかけた。
「う、ううん。やっぱりいい。何でもない」
 亜矢は思い直したように首を振ると、
「ああ、そういえば貴洋、何で今日電話に出なかったの? 母さん何回もかけたのに」
 それ以上の追及をはねつけるようにあっさりと話題を転換してしまう。
「え?」
 貴洋は慌ててポケットのスマホを取り出した。
「ご、ごめん。全然気づかなかった。俺、外では必ずマナーモードにするし。何かあった?」
「ううん、もういいの。来る途中でお線香を買ってきてもらおうと思っただけ。ほら、駅前のあの仏具屋さん」
「え? あ、ああ、あそこか……」
 何食わぬ顔でさらりと言う亜矢に、貴洋は気まずそうに応じた。
 そういえば父が亡くなってから、亜矢は必ず線香をその店で揃えていた。何でも「安物とは香りが違う」らしく、墓前に供える銘柄はいつも決まって高級品だった。
(何が、そういうのはちゃんと行っとかないと、だよ……)
 貴洋は心の中で自分にそう毒づき、苦笑する。
 四十九日くらいまでは貴洋も一緒に行ってあれこれ用意したものだが、今では店の存在すら忘れかけている始末。父の墓参りなど所詮は単なる口実にすぎなかったことを、嫌というほど思い知らされた。
「母さん、明日は用事があって昼から留守にするから、帰りにでも買ってくるね」
「あ、俺が……行こうか?」
 せめてもの罪滅ぼしに、貴洋が申し出る。
「ううん。夕飯までには戻るつもりだから。いざとなったらお墓の近くにある店でもいいし」
 亜矢はにっこり笑って首を振ると、柔らかに貴洋の言葉を拒絶した。
「そ、そう……」
 また、言い知れぬ違和感が貴洋を襲う。
 以前の亜矢なら、こんなことは絶対に言わなかった。
 それどころか、「あの店のじゃないとだめ」とか言って、雨が降ろうが槍が降ろうが勇んで線香を買いに行ったに違いない。
 確かに、時間は流れている。
 夫を亡くした直後、毎日のように仏壇の前で泣き崩れていたあの頃に比べれば、間違いなく亜矢の悲しみは薄れているのだろう。貴洋はそれを責める気などないし、自分の親不孝ぶりを省みれば、なおさら義母の態度についてとやかく言うことはできない。
 何より、亜矢が過去に区切りをつけて前に進むということは、貴洋自身ずっと望んでいた、喜ばしい事態であった。
(でも……)
 反面、それにしたってやはり妙だ、とも思う。
 そもそも、几帳面な性格をしている亜矢がこんな直前になるまで線香を切らしていることに気づかないのがまずおかしかった。

 ――もしかしたら、他に――

「……」
 ほんの一瞬脳裏をよぎった思考がただの勘違いでは済まない空気をひしひしと感じながら、貴洋は目の前に座る義母に疑いの眼差しを向ける。
「それで、貴洋は? 何か予定あるの? 明日」
「え? あ、明日は……」
 何食わぬ顔で質問してくる亜矢に、貴洋は言葉を詰まらせた。
「え、えーっと……お、俺も出かける。と、友達と会うんだ。高校の」
 とっさに口をついたのは、真っ赤な嘘。
「そう。晩ごはんいる?」
「た、多分。夕方には帰ると思う」
「分かった。じゃあスーパーにも寄らないとね」
「あ、ああ……」
 こんな当たり前の会話にさえおぼろげな偽りの気配を感じながら、貴洋は心なしか味付けが変わった気がする味噌汁を一口、小さくすすった。

          *       *       *

「いってきまーす」
「ほーい」
 そう言って出かける亜矢を見送ると、貴洋は自分もすぐに準備を済ませて、大急ぎで小さな平屋の玄関を飛び出した。
 追いかけるのは、もちろん亜矢の背中。
「つかず、離れず、怪しまれず」
 そんな標語みたいな文句をぶつぶつと口の中で唱えながら、探偵にでもなったような気分で距離を取り、義母の捕捉を続ける。
「……ん?」
 にわか探偵の足が、ぴたりと止まった。
 亜矢がとある家の呼び鈴を押し、一言二言インターホン越しに話をすると、すぐに家の中へ入っていく。
「っと」
 貴洋はちらちらと周囲に目を配りながら、小走りに玄関先へと駆け寄った。
「あ、あれ?」
 思わず漏れた声は、素っ頓狂な尻上がり。
 二階建ての、大きな一軒家。瓦屋根の和風な造りで、側面には庇と板張りの縁側がにゅっと突き出ている。
 この外観には見覚えがあった。というより、かなりなじみの深い場所だ。
「ここって……」
 表札には、白石に黒字で刻まれた「三好」の二文字。
「やっぱり」
 貴洋が納得の表情で頷く。
 ここは中学の同級生、三好謙吉(みよしけんきち)の家だ。
 大の坂本龍馬ファンだった父親が龍馬ゆかりの人物から選んだ名前らしい。元々名字の方も龍馬と縁の深い人物と同じなため、すっかり幕末の人みたいになってしまったというぼやきを本人の口から聞いたことがある。
 中学の頃はゲームの達人である謙吉に教えを請うということでよく遊んだが、高校が別々になってからは疎遠。卒業後、地元企業に就職したと風の噂で耳にした程度だ。
(何で、母さんがここに……)
 二人には接点などない。もしあったらお喋りの好きな亜矢のこと、必ず何らかの形で貴洋に報告してくれるに違いなかった。
 親同士の付き合いということも考えられない。
 謙吉は早くに両親を亡くしており、祖父と二人で暮らしていた。そしてその祖父も、中三の終わりに他界。葬式で「これからは一人だよ」と哀しげに笑っていた記憶がある。
「やっぱり……」
 亜矢は謙吉に用があってここを訪れているのだろう。そう考えるのが自然で、それ以外には考えられない。
 そしてその用事とは、亜矢が貴洋に、息子には知らせたくないと思うような――秘密。
「……くっ!」
 貴洋は家の横に回ると、石塀と隣家の壁の間にある、一人通るのがやっとの細い隙間に入り込んだ。そして人目につかないようエアコンの室外機に隠れると、じっと身を潜めて逃亡中の犯人みたいな態勢になる。
(確かこの辺に……)
 小さな割れ目があったはずだ。そこからだったら、縁側とその奥につながる和室が見える。昔はそれを利用して、色んな遊びを有利に進めたものだ。
「あった」
 身体が大きくなったせいか、記憶よりやや位置が低かったが、間違いない。
「っ……」
 窮屈に腰を屈めながら、石塀の穴に目を押しつけ、中を覗く。
「なっ……!」
 いきなり飛び込んできた光景に、貴洋は自分の目を疑った。
「んっ」
「ん、んんっ……ちゅっ」
 それは、若い男と熟した女の、濃厚な接吻。
 むせ返るように暑い夏の昼下がりに、間違いなく合意の上の、お互いに愛を確かめるようなキスシーンが繰り広げられていた。
(なっ……そんな……)
 遠目の横顔だが、あれは確かに謙吉だ。多少大人びてはいるが、元々地味めの顔つきだったせいか、外見にはほとんど変わりがない。
 そしてその謙吉がきつく抱きしめているのは、まぎれもなく自分の義母、亜矢。
(な、何で……何で謙吉と、母さんが……)
 貴洋は呆然と目を見開いたまま、爪が食い込むほどに拳を固く握る。
「ふう……」
 時が止まったような長い長い口づけの後、謙吉は亜矢の口からずるりと舌を抜いた。
 そして亜矢の服を脱がせると、自分も素早く裸になる。
 それから亜矢の全身をくまなく舐め回すと、犬のように四つん這いにさせたその後ろから、熱くたぎる肉棒をぶすりと突き刺してみせた。
(あ、あ、ああ……)
 一連の動作が、よくできた映画のようにスムーズな流れで眼前に展開するのを、貴洋はただなすすべもなく見つめるしかなかった。
「ふっ、はっ!」
 謙吉が激しく動くたびに、形のいい亜矢の両乳がぶるぶると揺れる。
「あ、あっ、うっ、うんっ、ああぁっ!」
 初めて聞く義母の甲高い嬌声が、開け放たれた襖の奥から貴洋の耳をついた。
(か、母さんが……あの母さんが……あんな、声を……)
 悪いとか逃げようとか、そんな感覚は微塵もなかった。貴洋はさらに意識を集中させると、亜矢と謙吉の濃密な交わりを貪るように両の眼に焼きつけていく。
 しばらく、激しい抽送が続いた後。
「うっ! うぁっ!」
「あ、あああっ! ああああぁっ!」
 不意に謙吉の動きが止まり、亜矢の身体が二度ほど大きく震えた。
「ふうっ、と」
 謙吉が深く息を吐いて、古びた畳の上に仰向けで転がる。
「ん……」
 亜矢も横になって謙吉の下半身にしなだれかかると、待ち構えていたようにその一物に舌を這わせ、口に含んだ。
「な、何だよ、それ……」
 当然のように同級生への奉仕を続ける義母の姿に、貴洋はまたも愕然とする。
 悪い夢でも見ている気分だが、これはまぎれもなく、現実。
「ありがとう、亜矢さん」
 呆然と宙を彷徨う貴洋の目線を、謙吉の声が引き戻した。
 見ると、白濁と淫水にまみれた肉棒の掃除はもう終わっている。
 挿入こそしていないが、謙吉は亜矢を身体の上に乗せ、全身をぴったり密着させながら艶のある黒髪やふくよかな胸、そして張りのある肉厚な尻への愛撫を丹念に続けていた。
「それにしても、亜矢さんって結構健気なタイプだよね」
「そ、そう?」
 謙吉の言葉に、亜矢が戸惑いながら聞き返す。
「うん。二日にいっぺんはご飯を作りに来てくれて、味噌汁も僕の好きな味に変えてくれて。髪型だって僕の好みに合わせてくれたし、今も、ほら。ほんと、尽くす女って感じがする」
 亜矢が舌で綺麗にした一物を指差しながら、謙吉がにっこりと笑った。
(あ、あいつ……!)
 貴洋が物陰に身を潜めたまま、目だけを慄然と見開く。
 これまで感じてきた亜矢に対する違和感。その正体が、今一気に判明した。
 やはり問題は外見上のことなどではなかった。肝心なのはそれが「誰のため」であったか、ということ。
 そして亜矢は、その全てを謙吉に――自分の同級生に――捧げていたのだ。
「くっ……!」
 貴洋はわけもなく、目の前の石塀を思いきり殴りつけてやりたい衝動に駆られた。
 自分には一分の理もないと分かっていても、抑え切れない激情が胸の奥でぐるぐると台風のように渦巻く。
「ひょっとして重い、かな? こういうの……嫌?」
 物陰で激情を持て余す貴洋をよそに、亜矢と謙吉のピロートークは続いた。
「ううん、全然。僕、尽くされれば尽くされるほど嬉しいタイプだし、色々と応えてあげたくなるよね。ただ、ちょっと意外ではあったけど」
「……意外?」
 きょとんした顔で尋ねる亜矢に、謙吉は昔と変わらぬ落ち着いた調子で淡々と語る。
「うん。亜矢さんってしっかりした、芯の強い感じの女(ひと)だと思ってたから」
「そ、そう? わたし、そんなにきつく見える?」
「ううん。きついっていうのとはちょっと違うんだ。筋が通ってるというか、優しいんだけど叱る時はしっかり叱ってくれる、みたいなね。理想の母親っていうのが一番近いかも」
「やだ、それは誉め過ぎよ」
 亜矢はそう言って謙遜したが、その浮かれた声色からすると、胸の内ではそうまんざらでもないのだろう。
「僕ね、中学の頃、貴洋の家に遊びに行くのが楽しみでしょうがなかったんだ」
 甘えるように亜矢の顔へ頬をすり寄せながら、謙吉はぼんやり遠い眼差しで、シミに汚れた板天井を見つめる。
「僕、母親と一緒にいた記憶が全然ないから、そういう人と一緒にいるの、凄くいい気分で。だからそんなに好きでもないゲームの腕を磨いてさ、遊びに行く口実を作ったんだ。もちろん貴洋と遊ぶのは楽しかったけど、それ以上にとにかく、亜矢さんに会いたい一心だった」
「え、そ、そうなの?」
 驚いたように聞き返す亜矢に、謙吉はうん、と深く頷きながら優しく微笑みかけた。
「芸は身を助ける……はこの場合、ちょっと違うかな。でもお陰で、毎日のように亜矢さんの顔を見ることができた。ほんと、穴が開くんじゃないかと思うくらいによく見たよ」
「ふふ。もう、そんなこと言って」
 真面目な謙吉の冗談に、亜矢の温かな笑い声が重なる。
「でも、貴洋と高校が別々になって、家に遊びに行くこともなくなった。もちろん亜矢さんに会うこともない。憧れは憧れのまま、自然に消えていくと思ってたんだ」
 でも、と言葉が繋がった。
「そんな時、駅で亜矢さんとばったり会った。ちょうど去年のこの時期だったよね」
「そうそう。それでお茶をしたの。駅前の喫茶店で」
「うん。初めは近況を聞かせて、なんて言ってたけど、亜矢さん、どんどん自分の話ばかりになっちゃって」
「う、うーん。だってそれは、ねえ」
 亜矢は少女のように頬を赤らめると、照れ臭そうなごまかし笑いを浮かべた。
(そ、そうだ)
 その姿を塀越しに見つめながら、貴洋も昔を思い出して納得する。
 三好謙吉とは、そういう奴なのだ。
 古めかしい名前に見合った年齢より大人びた雰囲気。話し上手だが、それ以上に他人の話をしっかり受け止め、適切なアドバイスが出来る聞き上手。
 同い年とは思えない包容力に乗せられて、話を引き出すつもりがいつの間にやら自分のことばかりぺらぺらと喋っている。そんなことが貴洋にもよくあった。
「でも亜矢さん、あの後結構すぐ連絡くれたよね。パソコンの調子が悪いから診てほしいとかそんな理由だったけど、あれ、嘘だったんでしょ?」
「う、うん……確かに調子はよくなかったけど、診てもらうほどじゃ……なかった」
「ふふ。やっぱり」
「今思うと、淋しかったのかも。あの人のいない生活にようやく慣れてきたら、今度は貴洋が遠い東京に行っちゃって、本当に一人になったような気がしてたから」
「っ……!」
 貴洋がぎゅっと強く唇を噛む。自分の都合を優先させて東京に出てしまったことを、今ほど悔やんだことはなかった。
「それで、話し相手に僕を?」
「うん。お仕事忙しいのにこんなおばさんの相手をさせて悪いと思ったんだけど、謙吉くんと話していると安心するもんだから、つい……迷惑だった?」
「そんなことないよ。大好きな女性に頼ってもらえる。男としてこんなに嬉しいことはない。それに、自分のことをおばさんなんて言わないで。亜矢さん、とっても綺麗だ」
 歯の浮くような台詞を大真面目な顔で吐き、ちゅっと一つ亜矢の頬にキスをすると、
「だけどね、亜矢さん」
 謙吉はにっこり笑って亜矢の首に手をかける。そして指に力を入れ、喉を軽く締めつけた。
「んっ!」
 亜矢が少し苦しそうに、顔をしかめる。
「僕のことは謙吉くんじゃなく、謙吉さん。ほんと、何回言えば分かるのかな。亜矢さんって凄く尽くしてくれるし、綺麗だし、物覚えもいいけど、これだけは全然直らないよね」
「あ……ご、ごめんなさい。でも……」
「でもじゃない。僕はもう貴洋の同級生だった中学生じゃなくて、一人の男なんだ。その辺、ちゃんと理解してくれないと困る」
 言い訳をしようとする亜矢を制するように謙吉は言い放った。
「う、うん……ごめんなさい……謙吉、さん」
「ふふ、そうそう」
 穏やかに、しかし満足げな微笑を頬にたたえながら、謙吉はさらに続ける。
「それで、僕達のこと、貴洋に伝えた? もう帰って来てるんでしょ?」
「え、ええ。昨日。でも、なかなか言い出せなくて……」
「……!」
 貴洋は、昨晩何か言い淀んだ母の姿を思い出した。そしてその後、そのことに関する追及は一切受け付けないと言わんばかりに話題を変えてしまったことも。
「まあ、確かに言いにくいよね。中学の同級生だった謙吉と結婚を前提に真剣なお付き合いをしていて今は妊娠三ヶ月です、なんて」
「!!」
 貴洋の心臓が一瞬、止まった。
「そんなに言いにくいなら、僕から言おうか? 貴洋にも久しぶりに会ってみたいし」
「う、ううん! わたしから、わたしから言うから!」
 ぶるぶると首を振る亜矢に、謙吉はなおもいたずらっぽい笑顔を向ける。
「そう? ならいいけど。でも貴洋、驚くだろうなあ。僕が君の新しいお父さんだよ、そしてもうすぐ小さなきょうだいができるんだ、なんて聞いたら引っくり返っちゃうかも」
(引っくり返るどころじゃねーよ!)
 塀の向こうから思わずツッコミを繰り出してしまう貴洋だが、それを声になど出せるはずもなかった。
「ああ、そうだ」
 謙吉が何か思いついたように立ち上がると、一旦部屋を出て行く。
「ちょっといたずらしてみよっか。亜矢さん」
 そう言って戻ってきた謙吉の手には、古めかしい機種の携帯電話。亜矢のものだ。
 謙吉は座り直していた亜矢に電話を手渡すと、何か耳打ちしながら横向きに寝かせ、華奢な背中にぎゅっと抱きつく。
 亜矢はしばらく躊躇していたが、やがておもむろに操作を始め、通話の準備を整えた。
 その間に謙吉は肩に回した右腕で乳房を揉みしだき、股の間に挟んだ左腕で亜矢の片足を持ち上げながら、窓の外に見せつけるような体勢で再び挿入を始める。
「!」
 いきなりの着信に、肝試しで驚かされたみたいにびくっと肩を震わせてから、貴洋が慌てて表示を確認した。
「っ!」
 すぐさま、走り出す。
 狭い隙間を抜けて家の前に出ると、全力ダッシュでそこから離れ、声の聞こえない位置まで辿り着いてから通話ボタンを押した。
「あ、もしもし、貴洋?」
 聞こえてきたのは、普段と変わりない亜矢の声。
「あ、ああ。どうしたの?」
 息切れと感情のうねりを同時に抑え込みながら、貴洋が平静を装って応じる。
「や、やっぱり、お線香、貴洋に買ってきてほしいの。駅前の仏具屋さん、でっ」
「線香? でも母さん、帰りに買ってくるって……」
「う、うん。でも今日は急に遅くなることになって、買いに行けそうに、ないから。だから、夕食も自分で済ませ……んっ、済ませて、ちょうだい。ごめんね、貴洋」
「……」
 亜矢の様子がおかしくなっているのは、貴洋にもすぐ理解できた。
 間違いない。
 今、亜矢は、謙吉に突かれながら喋っているのだ。
 結合部をぐちょぐちょに濡らし、恍惚の表情で悶えながら、襖の向こうに見せつけるようなはしたない格好で息子と会話を続けているのだ。
(っ……)
 貴洋の心が、たるんだゴムのようにゆわん、と揺れる。
「母さん、大丈夫? なんか変だよ。後ろで妙な音もしてるみたいだし……」
 意を決して、聞いてみた。
「そ、そう? そんなこと、ないわよ……んっ、あ、こ、この電話機もう古いから、そろそろガタが来たのかも、ね。ん、んんっ……」
 返ってきたのは、あまりにも分かりやすすぎる、嘘。
「……そっか。分かったよ。線香ね。買っとく」
「う、うんっ、よろし、く。ごめん……ね」
「……」
 いよいよ艶かしさを帯びる亜矢の声から逃げ出すように、貴洋はそっと、電話を切った。

          *       *       *

「……」
 貴洋は通りすがりの公園に足を踏み入れると、手近なベンチに腰を下ろす。
 もう、謙吉の家に戻る気にはなれなかった。
 今さら戻ってみたところで、仲睦まじい二人の秘め事を延々と見せつけられるだけだろう。そんなことには、もう何の興味も意味もなかった。
「くっ……」
 足が地面に引きつけられ、尻が吸盤にでもなったようにべったりとベンチに張りつく。突然、世界の重力が三倍になったような気がした。
「かあ、さん……」
 背中が曲がり、頭が垂れて、口からたった一言、呟きが落ちる。
 義母には義母の人生があるし、謙吉だって相手としては悪くない。この程度の年の差婚など最近ではよくある部類だし、息子の自分から見ても亜矢は年齢よりずっと若い。釣り合いとかそんなことは、別段気に病む必要もないだろう。
 何より、二人は愛し合っているのだ。
 真剣に将来を見据え、ともに支え合い、同じ道程を歩んでいくことを心に決めているのだ。その証として、既に子供までもうけているのだ。
 そして、いつまでも亡くなった父にとらわれず、亜矢が新しい未来を手にすることは、貴洋自身が長く望んできたことでもある。
 誰にとっても、悪い話ではなかった。
 何の問題も、ないはずだった。
 なのに。

 ――この感情は、一体何だ――

「……」
 いつの間にか、随分と長い時間が経っていた。
「ああ、そうだ……」
 半死半生のような顔でそう言うと、貴洋はふらりとベンチから立ち上がる。
「線香、買いに行かなきゃ……」
 ぽつりと呟くと、周囲の子供達が向ける訝しげな目線など気にもせず、力ない足取りで歩き始めた。
「それから――」
 晩飯も買わないと、の一言は、口の中でもごもごと消えて言葉にならない。
「……」
 入れ替わり立ち替わり地面を蹴る自らの足をぼんやり視界に収めながら、貴洋はただ黙々と駅に向けて歩を進めた。
 額から流れ落ちるのは、一筋の汗。
「くっ……」
 身体が重い。
 足が進まない。
 この道が永遠に続いて、どこにも辿り着けないような気がする。
「……くそっ」
 貴洋は立ち止まり、後ろを振り返った。
「……」
 火照ったアスファルトの上では、暮れゆく夏の夕陽が生み出した貴洋の影が、いびつな形でぐにゃぐにゃと不気味なダンスを踊っている。
「……」
 しばし、睨み合った末に。
「……ぺっ」
 その黒く大きな塊に唾を一つ吐きつけると、貴洋はまた前を向いて、鉛のような全身を引きずりながら、ゆっくりと歩き始めるのであった。



※おまけストーリー『義母と、違和感と、同級生と ――After――』はこちらから!
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[ 2014/12/31 13:57 ] プチNTR | TB(-) | CM(0)
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