(わたし、何で……)
自身の行動に明確な理由を見出すことができないまま、希恵子は座って靴を履く黛の頭頂を見るでもなしに見つめる。
「よ、っと」
そうひと声かけて立ち上がると、黛はダンスのステップでも踏むようにくるりと後ろを振り返った。
「えっ……」
床と三和土の段差で身長差がなくなって、黛の顔がちょうど希恵子の正面に置かれる。
「……」
「……」
何を言うでもなしに、しばらくの間見つめ合った。
「ああ、そういえば奥さん」
「は、はい?」
不意に語りかける黛に、希恵子が驚いたように言葉を返す。
「最後に――」
言いながら、黛がゆっくりと、希恵子に顔を寄せた。
唇が、今にも触れ合いそうな至近距離にまで接近する。
(だ、だめ!)
希恵子がかっと大きく、目を見開いた。
ここは、駄目。
唇へのキスだけは、駄目。
ここは何があっても、和臣だけの場所。
どれだけ辱められようと、どれだけ淫らな痴態を晒そうと、それは希恵子にとって譲れない一線。初めの日から今日に至るまで全くぶれることのない、大事な大事な、信念だった。
その、はずだった。
なのに。
(あ、ああ……)
希恵子は、顔を動かすことができなかった。
別に押さえつけられているわけではない。ただ相手の顔が近づいてきただけ。避けることも突き飛ばすことも、やろうと思えば簡単にできる。
だが希恵子には、それができなかった。
やろうと、思わなかった。
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