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「少し、遅れるかしら」
一日分の家事を終え、最低限の身繕いを済ませた希恵子が出かける準備をしていた。
もう何度目になるかも分からない、黛との逢瀬。
そのたびに繰り返されてきた所作を淡々と、しかしできるだけ急いでこなしていく。
だが今日に限って、希恵子は妙な違和感を覚えた。普段は目につかないものが、急に視界の隅をよぎる。
「?」
ぐるりと周囲を見回して、異物の正体を突き止めにかかった。
「……あ」
答えは、壁にかけられたカレンダー。
ある一日に花丸で印がつけられ、その下の空白には希恵子の字で「結婚記念日」と記されていた。その前日には「和臣さん出張」の文字が新たに追加されており、語尾から伸びた矢印は結婚記念日をまたいで翌日まで続いている。
結婚記念日は前々から書いておいたものだが、出張の方は昨日書き足したばかり。見慣れずつい目に留めてしまったのだろう。
希恵子は恨めしそうに、「出張」の二文字と矢印を睨んだ。
「はあ……」
右手で左ひじをつかんで、目線を斜め下に逸らしながら、昨日から飽きるほどついたはずのため息をまた一つ吐く。
最近は、何をしてもこんな調子だった。
あの夜の誘いを断って以来、和臣との距離もどことなく遠い。気まずくて顔を合わせられず、疲れたとか眠いとか嘘をついて早めに寝てしまうことが多くなっていた。
「どうしたの? 希恵子さん。もしかして、体調でも悪い?」
鈍いなりに何かを感じ取ったのか、和臣は何度もそう言って希恵子を気遣ってくれた。
だがそれはありがたい反面、逆効果でもある。
「……ううん、大丈夫」
夫が見せる裏表のない優しさに毎回同じ作り笑顔でそう返すたび、希恵子の心は岩のようにずっしりと重たくなっていった。
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