全員がそれぞれの床について、本来ならすっかり寝静まっているはずの時間帯。
「……」
淡い紫色を基調としたシックなデザインのネグリジェを身にまとった咲野子が、露木の眠る夫婦の寝室へと歩を進める。
入り慣れた部屋の前に立つと、一度雅文を振り返ってから、小さく二回ドアを叩いた。
「あの……少し、よろしいですか?」
ほどなく入口が開き、咲野子が深い闇の奥へと吸い込まれていく。
「くっ……!」
直後、雅文はリビングに敷かれた布団からがばっと跳ね起きると、足音と息を殺して自分と妻の寝屋へと忍び寄った。
何ができるわけでもないが、だからといって何もせずに壁とにらめっこしたまま悶々と夜を過ごすなど、とてもじゃないが耐えられそうになかった。
(……あれ?)
咲野子が密室を避けたのか、ドアは僅かに開いていた。
常夜灯だけをつけているようで中は薄暗いが、それでも様子を窺うことは十分に可能だ。
これ幸いとばかりに、雅文は細い隙間に目を押しつけて室内を覗き見る。
「どうかされましたか?」
「その……返済の不足分について、なんですけど……」
裸の上半身にボクサータイプのパンツ一丁という格好でベッドに寝そべる露木に、咲野子は少し距離を置いた壁際で両手を前に重ねながら、探るように切り出した。
「今晩、この一回だけ、わたしを好きにしてください。それで、全てを……」
「チャラにしろと?」
露木はさも驚いたというように目をむくと、大仰に肩をすくめてくっくと笑う。
「何を言い出すかと思えば、それはまたずいぶん図々しいお願いですね。一晩三千万ですか。もしかして奥さん、普通の主婦に化けたとんでもない超高級娼婦だったりします?」
「そ、それが無理でも、返済はわたしが二人分します。ですから……」
「どうか娘だけはお助けください、と」
言葉を遮って結論を述べる露木に、咲野子はぺこりと頭を垂れて同意と依願を示した。
「二人分って、簡単に言いますけどね」
露木が人を小馬鹿にしたような薄笑いを浮かべる。
「自分の分に加えて、若い娘さんの代わりもってことでしょ? それはちょっと厳しいんじゃないですかね? 体力的にも、スペック的にも」
そう言うと、咲野子の頭頂から爪先までをじろじろと、粘っこい目つきで眺め回した。
「だ、大丈夫です。元々体力には自信がありますし、身体だって娘にはまだまだ負けません。ですからどうか、どうかお願いします。わたし、精一杯やりますので」
「……ふーん、そうですか。そういえば運動神経も抜群でしたもんねえ、奥さん」
昔を思い出すような遠い目でぼそっと呟いた瞬間、露木の双眸が、何かスイッチでも入ったようにぎらりと妖しく光る。
「でもそのわりには、さっきから全然精一杯な感じがしないんだよなあ。あんたの態度」
「ど、どういう……ことですか?」
相手の雰囲気が一変したことを察して、咲野子の口調が僅かに怯んだ。
「人に何かを頼むならそれ相応の振る舞いってものがあんだろ、ってことだよ」
「!」
高圧的な言葉遣いでほのめかされた露木の意趣を理解して、咲野子が怒りをこらえるようにきゅっと唇を引き結ぶ。
「……お……お願い、します……」
プライドと腰を同時に折り曲げ、露木に向かって深々と頭を下げた。
「あー、まだ頭が高いなー」
露木はわざとらしい棒読みで咲野子の誠意を全否定すると、
「そうだなあ……例えばしおらしく三つ指ついて額を床にこすりつけてる女とか、結構いいと思うんだけどなあ、俺」
続けて傲慢の極みのような申し出をぽんと目の前に放り捨ててみせる。
「み、三つ指で額を床に……!? そ、そんなこと、できるわけが……!」
耐えがたい恥辱の提案に、咲野子はとうとう声を荒げて不快感をあらわにした。
「あ、そう。まあこっちは、やんなきゃやんないで別にいいんだけど……どうする?」
もってまわった口調で、露木がにやついた顔を咲野子に向ける。そこに漂うのは、絶対的に優位な人間が時として放つ、腐ったハラスメントの臭いだ。
「……」
たっぷり十秒ほどためらってから、咲野子がゆっくり動き出した。
足を折り曲げると、正座の状態から膝の前に両手を置き、頭を下げる。ついた指はそれぞれ親指と小指を除いた三本ずつ。抵抗の意はないと相手に示す礼の所作だ。
(す、すまない、咲野子……俺が、俺さえしっかりしていれば、こんなことには……)
他人を信じるあまり、軽率に連帯保証人を引き受けてしまった。莫大な借金を抱えたことを会社に知られてリストラされ、次の仕事探しもままならない。挙句の果てには自分の不始末を尻ぬぐいさせるために、こうして最愛の妻を奈落の底へと蹴り落としている。
あまりにも情けない己への嫌悪感に、雅文は扉の前で胸をかきむしりたくなった。
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