「何で……こんなことに……」
埃一つないフローリングをぼんやりと見つめながら、希恵子が呟く。
初めて黛と会ったあの日、全てを断っていれば事態は全然違っていたのだろうか。
いや、それを言うなら、そもそも誰かさんが借金なんてしなければ――。
「っ……」
思わず夫への不満をこぼしそうになり、希恵子は慌てて口をつぐんだ。
『妻には僕のせいで苦労ばかりかけてますから、少しでも家計を楽にできればと……』
レコーダーから流れた和臣の涙声は、間違いなく本物。そしてそこから発せられた内容は、
まぎれもない夫の、本心。
和臣は決して、私利私欲に目が眩んだわけではないだろう。家計を、そして希恵子のことを少しでも楽にしたい一心で、慣れない投資などに手を染めたに違いない。
愚痴をこぼすことこそなかったが、和臣が自身の収入の少なさをずっと気に病んでいたのは希恵子もよく知っている。
「そう、よね……」
重要なのは、和臣が自分のためを思ってくれたその心。
失策を犯したからといって夫を足蹴にする真似など、希恵子にはできるはずもなかった。
「でも……」
希恵子がまた、カレンダーを見つめる。
だからといって、これ以上黛との情事を続けるのも許されない気がした。
倫理とかモラルとかそういった問題だけではなく、もっと心の奥深くの、いわば本能に近い部分で、自分の中の何かが揺らいでいるように思えた。
いくら心の中で和臣への操を守っているとはいっても、現実として身体の方は肉欲をまるで制御できていない。
『どうせ、ばれることはないだろうし……』
結果として和臣からの電話に救われる形になったが、あの時ほんの一瞬、黛に身を委ねてもいいと思ってしまったのは、偽りない事実であった。
(あんな、人……)
希恵子の中で、黛への認識は何も変わっていない。
「不快な酷い人」
その評価は、初対面から今日に至るまでずっと一貫していた。
それなのに、黛を相手にすると希恵子の肉体はまるで別人のように過敏な反応をみせる。
どれだけ黛に悪意を持って臨んでみても、抱かれれば必ず感じてしまうのだ。
今となってはもはや記憶すらおぼろげだが、和臣とのセックスでこうも身体が疼いたことはただの一度もなかった。
黛と交わり、肉の悦びを感じれば感じるほどに、和臣への罪悪感は増す。
そして背徳の心理が深まれば深まるほど、その快感はよりいっそうの重みをもって希恵子の全身に巣食っていった。
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